今回は、ロマン派の作曲家ヨハネス・ブラームスの生涯について解説します。
ブラームスは、同じドイツ出身のバッハ、ベートーヴェンと共に、そのイニシャルから「ドイツ三大B」の1人とされています。また、ロマン派の時代に活躍しながら、古典的な音楽様式を継承した作風でも知られています。
そんなブラームスは、どんな生涯を送ったのでしょうか。生い立ちから晩年まで、順にご紹介していきましょう。
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ブラームスの生涯を時系列順に解説!
ピアニストとして歩み出した幼少時代
1833年5月7日、ヨハネス・ブラームスはドイツのハンブルクに誕生します。市民劇場で演奏するコントラバス奏者の父親ヤーコプと、ヤーコプより17歳年上の母親クリスティアーネのもとに生まれました。両親と姉と弟、5人暮らしでした。ブラームスの音楽的才能をいた父親は、ヴァイオリンを教えました。家にピアノがなかったのです。7歳になり優秀なピアノ教師のオットー・コッセルからレッスンを受けたことで、ブラームスのピアノの技術はさらに進歩を遂げました。
1843年、10歳のブラームスは初めてコンサートでピアノを演奏しています。実現はしませんでしたが、アメリカへの演奏旅行に誘われるほどの腕前でした。コッセルは自分の恩師であるエドゥアルト・マルクスゼンにブラームスを紹介します。そして、マルクスセンからピアノや作曲法のレッスンを受けることとなりました。
ブラームスは作曲家を目指すようになりますが、より高度な専門教育を受けられるほど、裕福ではありませんでした。貧しい家計を支えるため、13歳のころからは居酒屋でピアノ演奏の仕事も行いました。
シューマン夫妻との運命的な出会い
1848年、15歳になったブラームスは初めてソロリサイタルを開催します。翌年にもリサイタルを開き、自作曲も演奏しています。
1953年、20歳になったブラームスは、ヴァイオリニストであるエドゥアルト・レメーニと共に演奏旅行に出かけます。ピアノ伴奏者として同行しながら、ハンガリー人であるレメーニからハンガリーの音楽について教わったことが、のちの作曲に大きな影響を与えます。
また、この旅行中にブラームスに大きな転機が訪れます。デュッセルドルフに住む作曲家ロベルト・シューマンを訪ねたところ、シューマン夫妻に歓迎されたのです。そして、シューマンは音楽雑誌の批評でブラームスを取り上げ、その才能を絶賛します。ブラームスもまた、シューマンを尊敬していました。ブラームスはシューマンが所蔵していた古典楽曲の楽譜を勉強し、管弦楽曲の作曲法を学んでいきます。
シューマンに関するショッキングな出来事
しかし、その翌年、精神障害を患っていたシューマンが自殺を図るというショッキングな事件が起こります。幸いなことに命は無事でしたが、シューマンは精神病院に入院し、ブラームスは残された家族を支えることを決めます。シューマンの家に滞在して子育てを手助けするなど、14歳年上であるクララを献身的に支えました。1856年にシューマンが亡くなると、ブラームスは追悼演奏会を開催しています。ブラームスとクララは親密な関係にありましたが、それ以後も2人の友人関係は続きました。
作曲家としての円熟期へ
クララがベルリンへ引っ越したため、ブラームスはデトモルトへ移りました。1857年からは、宮廷で演奏者や指揮者として働きます。
1858年、大学教授の娘であるアガーテ・フォン・シーボルトと婚約しています。しかし、結婚することに迷いを抱き、翌年には婚約解消してしまいました。
1859年、26歳で宮廷の仕事を離れると、故郷であるハンブルクで女声合唱団を結成しました。指導を行いつつ、この時期は合唱団のために多くの合唱曲が作曲されました。
1862年には、ウィーンで初めてリサイタルを開き、成功を収めます。ウィーンに移り住んでウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任すると、古典の楽曲を中心に演奏しました。
1864年になると指揮者を辞め、不仲だった両親を助けるために故郷ハンブルクに戻ります。しかし1865年に母が亡くなると、ブラームスはピアニストとして演奏旅行へ出掛けます。
ウィーンに移り住み交響曲一番を完成させる
1868年にはウィーンに移り住み、フリーで音楽活動しながら定職を探していました。1871年にはウィーン楽友協会音楽監督に就任しますが、1875年に辞任します。また、この間に父親が亡くなっています。
1876年に、ようやく「交響曲第1番」が完成します。すでに43歳になっていました。ベートーヴェンの後継とも言われたブラームスは、ベートーヴェンのような偉大な交響曲を作り出したいという思いから、完成までに約20年もの歳月がかかったのです、その後も熱心な創作活動が続き、交響曲や協奏曲などを意欲的に創作します。
https://www.youtube.com/watch?v=7M7Q7BXh_is (交響曲1番)
晩年の創作活動とクララの死
1890年、57歳になったブラームスは引退を考え始めます。音楽的能力の衰えを感じ始めたためです。楽譜など、身の回りを整理し始め、遺書まで用意していました。
しかし、優秀なクラリネット奏者であるリヒャルト・ミュールフェントと出会ったことで、再び創作意欲に火が付きます。ミュールフェントのためにヴァイオリン作品を生み出し、その他にもピアノ作品などの傑作を生みだすのです。
1896年、ずっと親交を続けていたクララが病気で亡くなります。ブラームスは棺で眠るクララと対面していますが、その死に大きなショックを受け、急速に体調が悪化します。
1897年4月6日、肝臓がんによりブラームスはウィーンで息を引き取ります。63年の生涯でした。
まとめ
ブラームスの生涯をご紹介しました。
貧しい家庭に生まれながら、音楽的才能を見出されたブラームスは、早くからピアニストとして活動します。指揮者としても活動しましたが、晩年まで作曲活動をやめることはありませんでした。交響曲から合唱曲、器楽曲など、名曲を次々と世に送り出したのです。
また、クララと特別な絆で結ばれながらも、誰とも結婚することはありませんでした。この記事を通して、音楽に生きたブラームスの生涯を理解して頂けたら嬉しいです。