プロコフィエフの生涯を分かりやすく解説!前衛的すぎてジダーノフ批判を受けた?

    ロシアを代表する作曲家の1人、セルゲイ・プロコフィエフの生涯について紹介します。

    19世紀末に生まれたプロコフィエフは、幼いころから「神童」と呼ばれ、作曲家、指揮者、そしてピアニストとして活躍しました。

    しかし、ロシア革命に揺れる祖国を離れてアメリカに亡命するなど、波乱万丈の生涯を送った人物でもありました。

    そして意外なことに、日本にも滞在しているのです。

    生い立ちから晩年まで、プロコフィエフの生涯について解説していきましょう。

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    目次

    生い立ちから晩年までプロコフィエフの生涯を解説!

    ・生い立ちとサンクトペテルブルク音楽院時代

    1891年4月23日、当時のロシア帝国(現在のウクライナ領土)の家庭に、3番目の子どもとして生まれます。セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフと名付けられました。農学者である父親と、音楽の教養を持った母親に育てられます。

    母親から音楽の手ほどきを受け、わずか5歳で作曲を始めています。また、両親は9歳になったプロコフィエフを連れてモスクワへ行き、グノーやボロディンのオペラや、チャイコフスキーのバレエなどを観劇させました。11歳になると、作曲家グリエールらから作曲法のレッスンを受けるようになり、交響曲の作曲にまで挑戦しています。

    サンクトペテルブルク音楽院に入学

    1904年、弱冠13歳という若さでサンクトペテルブルク音楽院に入学します。入学試験の際には、試験官長であった作曲家リムスキー=コルサコフがプロコフィエフの才能を熱烈に賞賛し、「神童」「天才」などと呼ばれ大騒ぎとなりました。

    1908年、17歳の頃には、「現代音楽の夕べ」という音楽サークルに参加し、自作曲が公開演奏されています。18歳で音楽院の作曲科を修了しますが、そのまま音楽院に在籍し、ピアノや指揮を学び続けます。また19歳の時には父が急死しました。

    バレエ音楽を作曲するに至った経緯

    1914年、23歳でロンドン旅行へ出掛けた際、ロシアの芸術プロデューサーであるセルゲイ・ディアギレフに出会います。ピアノ協奏曲を演奏したところ、ディアギレフはその音楽的才能に驚き、バレエ音楽の作曲を依頼します。

    第一次世界大戦が勃発する中、1917年にはロシア革命が起きます。内戦が始まったロシアに絶望を感じたプロコフィエフは、国外に出ることを考え始めました。

     

    1918年、アメリカ亡命を決意したプロコフィエフは、ついにロシアから出国します。船で日本へ到着したのですが、アメリカへ向かう船の出発がなかったため、日本に滞在することとなりました。

    京都や奈良などの観光地を巡り、さらに東京と横浜ではピアノリサイタルを開催しました。

    プロコフィエフの来日は、日本の音楽界にも影響を与えたのです。

    約2ヶ月間の滞在ののち、とうとうプロコフィエフはアメリカへ辿り着いたのでした。

     

    アメリカ亡命とパリでの音楽活動

    アメリカに到着したプロコフィエフは、現地で作品を発表しましたが、アメリカの聴衆にはあまり受け入れられませんでした。

    なぜなら、プロコフィエフの作品は当時の聴衆にとっては斬新すぎたのです。

    また、この頃のプロコフィエフは作曲活動だけでなく、独創的な短編小説も執筆しています。その小説は死後に出版されました。

    失敗に終わった交響曲2番

    1922年にはベルリンに移り、さらに翌1923年からはパリに移り住みます。

    パリで「交響曲第2番」が初演されますが、失敗に終わります

    アメリカとは逆で、パリの聴衆にとっては、プロコフィエフの音楽は新鮮味を感じられなかったのです。

    私生活では、カロリーナ・コディナと結婚し、翌年には長男が生まれました。しかし、同じ年には母親を病気で亡くしています。

    1927年と29年、32年には、プロコフィエフはソ連へ演奏旅行で訪れています。ソ連の聴衆はプロコフィエフの作品を歓迎します。この頃には、祖国への帰国を考えるようになっていました。そしてついに1935年、家族でソ連へ移り住むことになるのです。1918年のアメリカ亡命から、17年の歳月が経っていました。

     

    ・帰国後、制約を受けながらも創作を続ける

    ソヴィエト連邦となっていたロシアに帰国しますが、当時はスターリンによる独裁政治が行われていました。そんな状況下でも、プロコフィエフは映画音楽、バレエ音楽など、大曲を次々に生み出します。

    1941年に独ソ戦が開始されると、戦禍から逃れるために住む場所を転々とします。そんな日々でも、オペラ「戦争と平和」などの創作活動を続けました。

    私生活では、50歳になったプロコフィエフは妻カロリーナと不仲になった末、家を出てしまいます。そして、ミーラ・メデリソーンと同棲を始め、ミーラは公私ともにプロコフィエフを支えていきます。

    1945年には、階段から落ちて後頭部を強打し、意識不明のまま病院に搬送されるという不幸に見舞われました。さらに、この頃から健康状態が悪くなり始めています。

    ジダーノフ批判の対象になってしまうプロコフィエフ

    1948年、ソ連では前衛的な芸術作品に対するジダーノフ批判が始まります。

    これにより、プロコフィエフの作品のいくつかが演奏禁止の命令を受けます。

    当時は自由に音楽作品を作ることが許されず、ロシア当局の意図に合う作品を作ることが要求されていたのです。

    1949年、病状が悪化したため、医師から作曲活動を1日1時間に制限するよう言われてしまいます。1952年10月、最後の交響曲が初演されています。

    1953年3月5日、脳出血により息を引き取りました。61歳でした。偶然にも、スターリンも同じ日に死去しています。国中がスターリンの死去に騒然となり、プロコフィエフの死去はほとんど注目されることはありませんでした。現在プロコフィエフは、モスクワ市内の墓地で眠っています。

    https://www.youtube.com/watch?v=LEU4J53fHwo (戦争と平和)

     

    プロコフィエフの生涯のまとめ

    波乱万丈なプロコフィエフの生涯についてご紹介しました。

    生い立ちから晩年までを一通り知って頂けたと思います。神童と呼ばれた少年時代を経て、革命に揺れる祖国ロシアを離れ、アメリカに亡命したのち再びロシアに戻る…。そして、祖国へ戻った後も試練が待ち受けていたのです。そんな激動の人生を送ったプロコフィエフは、生涯を通して名曲を作り続けました。

    ぜひ、その人生に思いを寄せながら、プロコフィエフの音楽を聴いてみてくださいね。

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