クレメンティの作曲家としての生涯はどんなものだった?

    クレメンティという作曲家をご存知でしょうか。

    その作品で現在よく知られているのは、ピアノ学習者向けのソナチネくらいです。

    しかし、実は交響曲を作曲するなど、古典派時代に活躍した著名な作曲家でした。

    クレメンティの生涯についてご紹介しましょう。

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    目次

    クレメンティの生涯を解説!

    クレメンティの生涯を時系列順に見ていきます。

    イタリアで作曲を始めた幼少期

    1752年1月23日、ムツィオ・クレメンティはイタリアのローマに生まれます。父は銀細工職人で、母はスイス人であり、7人兄弟の長男として育てられました。6歳の時から専門家による音楽教育を受けます。12歳になると、オラトリオを作曲し初演しています。

    1766年、オルガニストとして活動しているクレメンティの姿がイギリス貴族の目に留まり、家族を離れてイギリスへ渡ることとなります。

    イギリスに渡り、本格的な音楽活動を始める

    23歳になったクレメンティは、ロンドンで本格的な音楽活動を始めます。主にチェンバロ奏者として有名になりましたが、1779年に「クラヴィーア・ソナタ」を発表すると、非常に好評を集めました。

    1785年ごろには、作曲したピアノソナタを自ら演奏会で演奏しています。交響曲も作曲し、自身で指揮を行うこともありました。しかし同時期に活躍していたハイドンやモーツァルトに注目が集まり、クレメンティの交響曲ほとんど注目を集めることができませんでした。

    1797年には、現在まで親しまれている「6つのソナチネ」が発表されます。

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    2度の結婚と創作活動

    1801年、ピアノ奏法を解説した「ピアノ演奏序説」を出版します。ハイドンやモーツァルトらのピアノ作品に、強弱や指使いなどを書き込んだ本でした。クレメンティは作曲家でありながら、優れたピアノ教育者でもあり、出版社を経営する実業家でもありました。

    1804年、52歳の時には弱冠18歳のカロリーネ・レーマンと結婚します。翌年には息子カールが誕生しますが、不幸なことに、その数日後にカロリーネは息を引き取ります。59歳の時に26歳のエマ・ギズボーンと再婚すると、4人の子どもが生まれています。

    1816年から1822年には、3度に渡って自作の交響曲を指揮しています。クレメンティは、交響曲の作曲家としての成功を夢見ていたのです。

    しかし、ベートーヴェンらに比べると、高い評価を得ることはできませんでした。

    ピアノ曲集の発表と晩年

    1817年、65歳でピアノ曲集「グラドゥス・アド・パルナッスム」第1巻を出版します。

    19年には第2巻、26年には第3巻が出版され、合わせて100曲に及ぶ作品集となりました。

    単なる指の訓練のための練習曲集ではなく、様々な音楽様式を含み、ピアノ教育において重要な作品集と位置付けらています。

    1820年から21年には、「3つのソナタなどの」大曲を次々に発表しています。1832年3月10日、イギリスで80歳の生涯を閉じました。

    クレメンティの生涯:まとめ

    作曲家としてのクレメンティの生涯を解説しました。

    ピアノ教育者でもあり、実業家でもあった多彩なクレメンティですが、ピアノ曲や交響曲など、様々な曲を作曲したことを知って頂けたはずです。

    ぜひ、クレメンティの音楽に触れてみてくださいね。

     

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