ドビュッシーは19世紀半ばのフランスに生まれ、フランス印象派を代表する偉大な作曲家です。
新しい作曲法で、印象派と呼ばれる新しい音楽を生み出しました。
- ドビュッシーはフランス印象派の作曲家
- 個性豊かで独特な作曲法が特徴的
- この記事ではドビュッシーの生涯を紹介!
今もその作品は世界中で愛され、誰もが一度はドビュッシーの音楽を耳にしたことがあるはずです。
今回は、ドビュッシーがどんな人生を送ったのか、その生涯について解説しましょう。この記事を読めば、作曲家ドビュッシーのことをより身近に感じてもらえるはずです。
ドビュッシーの生涯を時系列順に解説!
誕生から若手作曲家時代まで
1862年8月22日、ドビュッシーはパリ近郊にあるサンジェルマン・アン・レイという地に、5人兄弟の長男として生まれます。アシル=クロード・ドビュッシーと名付けられました。
父親のマニュエルは陶器店を営んでいましたが、その後は職を転々とし、母親のヴィクトリーヌはお針子の仕事をしていました。生活は豊かではなく、5歳のときにパリに引っ越しています。しかし、パリ=コミューンが起きた際、国民軍に加わっていた父親が逮捕されてしまいます。
9歳になると、詩人ヴェルレーヌの養母であるアントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人にピアノを習い始めます。貧しかったドビュッシーのため、夫人は無償でレッスンをしていたようです。
ドビュッシーはピアノの才能があった
1872年、ドビュッシーは10歳でパリ音楽院に入学し、作曲、ピアノ奏法、伴奏法などの音楽基礎を学びました。在学中、わずか12歳でショパンのピアノ協奏曲を演奏したほど、ドビュッシーはピアノの才能に恵まれていたのです。当初はピアニストを目指して練習に励んでいました。しかし、次第に学内コンクールで入賞できなくなり、ピアニストの道を断念することになります。
- ドビュッシーは5人兄弟の長男として誕生
- 幼少期は貧しく、無償でレッスンを受けていた
- 10歳でパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に入学
- ピアノの才能を開花させるも、次第に伸び悩み断念
ピアニストの道をあきらめた後のドビュッシー
1878年、16歳のドビュッシーは、初めてピアノ曲を作曲しました。楽器としてのピアノの可能性を模索し始めたと考えられます。
18歳になると、チャイコフスキーのパトロンであるフォン・メック夫人の演奏旅行に同行します。夫人の息子たちとピアノ三重奏曲を演奏するなど、ピアニストとして活動しました。ドビュッシーは夫人の娘のピアノ教師もしていましたが、娘と恋仲になったことに夫人が激怒し、解雇されています。
※チャイコフスキーはロマン派の作曲家であり、バレエ音楽が有名です。長年フォン・メック夫人による支援を受けていたとされています。
- 奏者としてではなく、作曲家としてピアノの可能性を追求し始める
- ドビュッシーはピアニストとしても活動し始めた。
パリに戻ったドビュッシーは、音楽院で勉強を続けつつ、20歳のころから作曲家として国民音楽協会のコンクールに参加し始めます。そして3回目の挑戦となる1884年、22歳で作曲したカンタータ「放蕩息子」でローマ大賞を受賞しました。
音楽院を卒業すると、2年間のイタリア留学へ出発しますが、イタリアでの生活が合わなかったようで、予定よりも早くパリに戻っています。パリで作曲活動を続けつつ、1889年に開催されたパリ万博では、ジャワのガムラン音楽と出会ったことで、音楽的に大きな刺激を受けました。
- イタリア留学をするが、肌に合わずパリに帰国
- ジャワのガムラン音楽に衝撃を受けた
作曲家としての円熟期を迎えるドビュッシー
1894年、31歳のドビュッシーは、テレーズ・ロジエという女性と婚約します。テレーズはドビュッシーのカンタータ作品を初演するときに歌っていた歌手でした。しかし、婚約から1か月後、ドビュッシーが別の女性ガブリエル・デュポンと同棲していたことが発覚し、婚約解消となります。デュポンはピストルで自殺未遂まで起こし、デュポンとも破局しています。
スキャンダルを起こしてしまった
このスキャンダルはパリ社交界の噂となり、ドビュッシーは知人たちの信用を失うこととなりました。
- 美しい音楽とは対照的に、波乱万丈な女性関係
- そのせいでドビュッシーは社会的信用を失うことになった。
名作「牧神の午後への前奏曲」の初演
同じ1894年には「牧神の午後への前奏曲」が初演されました。この曲でドビュッシーは新しい音楽様式を表現したのです。その後も次々に作品を創作し、作曲家として成功し始めたドビュッシーは、リリー・テクシエという女性と結婚します。
https://www.youtube.com/watch?v=j6_hBi_sM6Y (牧神の午後への前奏曲)
1902年には、オペラ「ペリアスとメリザンド」の初演が大成功を収めるなど、ドビュッシーは印象派の作曲家として認められる存在となりました。すでにドビュッシーは40歳になっていました。1903年には勲章も授与されています。
- 「牧神の午後への前奏曲」で新たな音楽様式を築いた
- オペラ「ペリアスとメリザンド」も出世作の1つ
ちなみにこのオペラ「ペリアスとメリザンド」はドビュッシーだけでなく、シェーンベルクも書いています。シェーンベルク版に関しては物凄く多彩なオーケストレーションが特徴的で見ていて飽きない楽譜になっているため、オーケストラのスコアを見るのが好きな人は是非見てみてください。
当時のドビュッシーの人間関係
そのころ、ドビュッシーは人妻のエンマ・バルダックと出会い、2人は恋愛関係になります。エンマはドビュッシーと同い年であり、裕福な銀行家の妻で2人の子どもの母親でした。社交界の歌姫と知られており、作曲家フォーレがエンマの為に歌を献呈しているほどの実力でした。
ドビュッシーが家を出てエンマと同棲を始めたことで、妻リリーがピストルで自殺未遂するという悲劇が起きます。リリーとは離婚しましたが、この事件によって、多くのドビュッシーの友人たちはドビュッシーとの交友を絶ちました。
- またもや女性を自殺未遂に追い込んでしまうドビュッシー
- 多くの友人が彼から離れていきました
そして43歳で父親へ
1905年、交響詩「海」が初演されるなど、作曲家としてキャリアを順調に積み、私生活では10月30日、エンマとの間に娘が誕生します。43歳にして父親になったのです。クロード=エンマと名づけられましたが、ドビュッシーは「シュウシュウ(フランス語でキャベツという意味)」と呼び、溺愛して育てました。
高級住宅街で暮らす一家でしたが、1907年にエンマが親族からの相続権を奪われるなど、経済的に苦しい状況におかれます。お金を稼ぐため、その後数年間に渡り、ドビュッシーは指揮者やピアニストとして度々ヨーロッパ各国へ演奏旅行に出掛けることになります。
- 43歳にして初めて父親になったドビュッシー
- しかし、経済的に苦しい状況に追い込まれてしまう。
- 打開するために、指揮者やピアニストとしてヨーロッパで活躍
https://www.youtube.com/watch?v=T5isk5oRp1A (海)
作曲を続けながら病と闘った晩年生活
第一次世界大戦が勃発した1914年、ドビュッシーは直腸ガンを患います。1915年に手術を受けるものの、闘病生活が続く中で作曲活動を行いました。
1917年、ドビュッシー最後の作品となるヴァイオリンソナタが、ドビュッシー自身の伴奏によって初演されます。
自宅療養の日々が続き、1918年3月25日、パリの自宅で55歳にして世を去ります。その翌年、愛娘のクロード・エンマはジフテリアにかかり、わずか14歳で亡くなりました。現在、ドビュッシーはパリにあるパッシー墓地に眠っています。
まとめ:ドビュッシーの生涯
ドビュッシーの生涯をご紹介してきました。幼いころから音楽の才能に恵まれたドビュッシーは、ピアニストから作曲家に転向し、傑作の数々を残しました。しかし、女性関係で度々トラブルを起こしたり、金銭的に苦しくなったりと、意外な私生活についても知っていただけたのではないでしょうか。
ドビュッシーの生涯を知ることで、よりドビュッシーの音楽を身近に感じてもらえると嬉しいです。