クラシック音楽の女性作曲家を紹介!逆境の中で活躍した五人とは?

    クラシック音楽の歴史の中で有名な作曲家といえばたいていが男性ですよね。

    では、女性は全くいないのかというとそんな事はありません。

    女性の社会的地位がまだまだ確立していなかった時代、女性が作曲家として名を馳せるにはまだまだ難しいものがありましたが、そんな逆境をもろともせず、素敵な曲を作った女性作曲家がいます。

    今回はそんな女性作曲家について、名前や代表曲、その特徴などを解説していきます。

    目次

    クラシック音楽の女性作曲家【ルイーズ・ファランク  】

    作曲家としての生い立ち 

    1804年フランスに生まれ、芸術に理解のある両親の下、この時代には珍しく性差に優劣つけない環境に育ちました。

    6歳でクレメンティの弟子だった先生に就くと、ルイーズは目覚ましい上達を見せ、職業ピアニストとしても活躍しました。

    両親は作曲の勉強も希望する娘を全面支援します。

    当時パリ音楽院は男性のみに入学が許されていましたが、女子は作曲科に設置された和声の授業への出席は許されており、ルイーズはそこに通いました。

    その後パリ音楽院で初の女性教授として就任します。

    夫はフルート奏者・楽譜出版者で、音楽はもちろん妻のキャリアに対して理解があり、当時としては非常に希有な夫でした。

    ファランクはピアニストで作曲もしており、パリ音楽院で初の女性教授に

    代表曲 クラリネット三重奏曲 変ホ長調 作品44 

    古典派の伝統にロマン派の器楽法を結びつけ、統一感のある楽曲構成を行なっています。

    古典派らしい明確なテーマの提示には、聴きやすさや親しみやすさがあります。

    自由なモチーフの連続がロマン派初期の雰囲気を思わせるような曲です。

    古典派の伝統にロマン派の器楽法を結びつけ、親しみやすさの中に自由さも垣間見える曲

    クラシック音楽の男性優位社会と闘い続けた作曲家 

    パリ音楽院ピアノ科の教授に就任したファランクでしたが、女性というだけで補助職員並みの給与しか得られなかったために、8年もの間、男性教授と同じ給与を求めて闘い続けました。

    19世紀のこの時代に、権利は当然主張すべきという意識を持っていた女性は決して多くはありませんでした。

    ファランクの作品は、存命中に夫の楽譜出版社によって約40曲が出版され評価を得ましたが、亡くなるとその存在は忘却の彼方となってしまいます。

    ドイツ研究振興協会がオルデンブルク大学に基金を献じ、彼女の作品の研究・普及を支援する1995年まで、ほとんど無名のままだったのです。

    男性教授と同じ給与を求めて闘った作曲家で、存命中に40曲が出版されたが最近まで無名であった

    クラシック音楽の女性作曲家【ファニー・メンデルスゾーン】

    作曲家としての生い立ち 

    1805年ドイツに生まれました。

    「結婚行進曲」を作曲したフェリックス・メンデルスゾーンの姉です。

    弟と同じく彼女もまた、幼少の頃より類まれな音楽的才能を披露しました。

    しかし父親は弟フェリックスだけに音楽家として期待をかけていました。

    フェリックスは姉の才能を理解し、高く評価していたのですが、女性が職業に就くことは見苦しいとする時代の感覚からぬけ切れず、姉が作曲家として活動することに積極的に賛成することができなかったのです。

    ファニー・メンデルスゾーンは才能ある作曲家だったが、父は弟だけに期待をかけていた

    代表曲 歌曲「イタリア」

    ピアノ曲と声楽曲が莫大な作品数の中心を占めています。

    歌曲「イタリア」は、なんと弟フェリックスが作曲したとして発表された曲でした。

    ヴィクトリア女王の愛唱歌となったこの曲ですが、のちにフェリックスは女王に謁見した際、「本当は姉の作品なのです」と打ち明けたというエピソードが残っています。

    歌曲「イタリア」は弟フェリックスが作曲したとして発表された

    父の意向に逆らわなかった天才女性作曲家 

    19世紀ドイツ、女性は職業に就くのではなく家庭を守ることが一般的であるとされる時代でした。

    41年という短い生涯の間に600近い曲を作曲しながら、父から作曲家になることを反対され、一部は弟フェリックスの名前で出版されたほど「女性が作曲する」こと自体が否定されていたのです。

    彼女が作る曲は「あこがれ」や「喪失」を扱うことが多く、まるで彼女自身の心の底にある、作曲家としての夢や、それが叶わぬ悲しみ、孤独がそのまま映し出されているようです。

    そして彼女は、父に逆らわず、最期までアマチュア作曲家として生きることとなったのです。

    600近い曲を作曲しながらも、最期までアマチュア作曲家として生きた

    クラシック音楽の女性作曲家【クララ・シューマン】 

    作曲家としての生い立ち 

    1819年ドイツに生まれました。

    9歳でプロデビューするほど卓越したピアニストでした。

    「コンサートを暗譜で演奏する習慣を作ってしまったピアニスト」としても知られています。

    天才ピアニストとして12歳の頃にはヨーロッパで演奏会をして回るようになり、皇帝や詩人ゲーテからも絶賛されていました。

    「トロイメライ」を作曲したロベルト・シューマンの妻です。

    クララはロベルト・シューマンの妻で、卓越したピアニスト兼作曲家

    代表曲「3つのロマンス」Op.21  

    クララ34歳、精神を病んだ夫ロベルトが病院に収容されてしまう前の年の作品です。

    夫と共に研究したバッハのフーガの影響が見られる第1曲。

    おとぎ話の世界に入り込んでしまったような、愛らしさあふれる第2曲

    穏やかな中にも絶えず不穏な旋律が見え隠れし、病状が悪化していくシューマンを見守るクララの心を表したような第3曲。

    第1曲はシューマンへの誕生日プレゼントとして、作品全体は当時、クララを親身になって支えていたクラシック音楽界の巨匠ブラームスに献呈されました。

    愛する夫を想い、ともに研究したフーガを盛り込みながら、自身の心の内も投影した名曲

    女性作曲家として成功した背景 

    ピアニストしてだけでなく、作曲家としても才能を発揮していましたが、当時は女性が作曲家になることは世間に認められておらず、女性というだけで曲を正当に評価してもらえなかったため、37歳の頃に作曲をやめてしまいます。

    しかしピアノ曲、ピアノ協奏曲、室内楽、歌曲など50以上の曲の多くがきちんとクララの名で出版されました。

    リストからも「クララ・シューマンの作品は本当に驚くべきもので、独創性と真の感受性がある」と絶賛されました。

    その背景には、すでにピアニストとしての地位があった彼女はクラシック音楽の世界で大作曲家にならなければならないという野望が無く、自分自身の感情を素直に曲に表現しているからともいわれています。

    リストから絶賛されながらも、ピアニストとしての地位があったクララは37歳で作曲をやめてしまう

    クラシック音楽の女性作曲家【バダジェフスカ】

    生い立ち 

    ポーランド出身の作曲家。

    生年を1834年とする説と1838年とする説があります。

    本格的な音楽教育は受けていませんでしたが、サロンでのピアノ演奏家として活躍し、自ら作曲も行っていました。

    音楽に高い芸術性を求められた時代、音楽教育を受けていない彼女に対して、「浅薄な素人くささを超えられなかった」と、19世紀の音楽事典が酷評したことからも、当時の偏見の存在が強かったことが伺えます。

    音楽教育を受けていないバダジェフスカに対する、世間の反応は冷たかった

    代表曲「乙女の祈り」 

    バダジェフスカの代表曲「乙女の祈り」が日本に持ち込まれたのは明治時代でした。

    以降、ピアノ曲として広く知られるのみならず、オルゴールや駅の安全柵開閉メロディ等としても広く愛されています。

    実は乙女とは聖母マリアのことであり、この曲は宗教的な音楽なのです。

    広く親しまれている「乙女の祈り」は実は宗教的な音楽

    19世紀女性市民の花嫁修業 

    「乙女の祈り」が発表された19世紀中頃は、一般市民の花嫁修業としてクラシック音楽のピアノレッスンが流行していました。

    パリの音楽雑誌の付録としてこの曲が発表されると、難しすぎない割に聴き映えがするということで若い女性たちがこぞって買い求め、瞬く間に売上100万部を超えるミリオンセラーとなりました。

    しかしバダジェフスカは母国ポーランドではあまり知られていない存在でした。

    この時代のポーランドがロシア・ドイツ・オーストリアの3国による分割統治の下にあり、ポーランドの文化や伝統をあからさまにできなかったからです。

    「乙女の祈り」は花嫁修業にふさわしい曲として、売上100万部を超えるミリオンセラーになった

    クラシック音楽の女性作曲家【リリ・ブーランジェ】

    作曲家としての生い立ち 

    1893年フランスに生まれました。

    音楽一家に生まれ、2歳ですでにフォーレにそのたぐい稀な才能を見出されます

    4歳の時から姉についてパリ音楽院の講座に出席し、音楽の知識を吸収しました。

    虚弱体質のため25歳と若くしてその生涯を閉じ、その才能を惜しまれました。

    ブーランジェは非常に才能ある作曲家だったが、25歳で惜しまれながらその生涯を閉じた

    代表曲 カンタータ「ファウストとエレーヌ」 

    リリ・ブーランジェの作品は、色彩豊かな和声と楽器の使い方、歌詞への巧みな曲付けで知られています。

    幼くして老齢の父親の死を体験し、自らも病弱で常に死に脅かされていたことから、不安や喪失感、嘆きの感情も彼女の作品を特徴づけています。

    彼女の傑作といえば、ゲーテの戯曲を基にしたカンタータ「ファウストとエレーヌ」でしょう。

    弱冠19歳でこの曲を書きローマ大賞を受賞、姉ナディアに抱きつき、ふたりで喜びを分かち合いました。

    この裏には、ローマ大賞4度の受験の末に断念した、姉ナディアの雪辱をリリが代わって晴らした面もあったのです。

    「ファウストとエレーヌ」でローマ大賞を受賞し、姉の雪辱を代わって晴らした

    ローマ大賞がもたらした音楽院の大改革

    「ローマ大賞」は1663年、ルイ14世により設立された、芸術を専攻する学生に対してフランス国家が授与した奨学金付留学制度です。

    音楽部門は1803年に設立されました。

    グランプリ受賞者はイタリア・ローマのメディチ家別荘で2年間を過ごし、毎年1作以上の大作の作曲の要請、政府による経済支援がありました。

    受賞者はベルリオーズ、フォーレ、ドビュッシー等、フランスを代表するクラシック音楽作曲家ばかりです。

    一方、ラヴェルは30歳という年齢制限のため、5回目となる最後の応募でもグランプリを逃しています。

    これが非常に大きな波紋をよび、最終的にはパリ音楽院院長テオドール・デュボワの辞職と、音楽院の大改革へとつながったのでした。

    ラヴェルがローマ大賞を受賞できなかったことで世間の反感を買い、音楽院の大改革へとつながった

    クラシック音楽史で活躍した女性作曲家のまとめ 

    いかがでしたでしょうか。

    19世紀当時のクラシック音楽界はまだまだ女性作曲家に対する理解が乏しく偏見にあっていた女性もいれば、家族の理解があり恵まれた環境で作曲に向かうことのできた女性もいて、人により様々な人生を歩んでいますね。

    これを期に、ぜひいろいろな女性作曲家の曲を聴いて楽しんでみてください。

    女性ならではの細やかで柔らかな作風のとりこになってしまうかもしれませんよ。

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