ロマン派を代表する作曲家、シューマンの生涯を解説!

    ロマン派に活躍した作曲家シューマンが、どんな生涯を送ったのかご存知でしょうか。

    ドイツで生まれたシューマンは、歌曲やオーケストラ曲など、多くの名曲を残した大作曲家です。

    しかし私生活では親族の反対を押し切って結婚したり、心の病に苦しんだりと、波乱に満ちた生涯を送りました。

    • ドイツロマン派を築いたシューマンの人生は波乱万丈なものでした

    今回はシューマンの生涯について、生い立ちから晩年まで順に解説していきます。では早速見ていきましょう。

    目次

    シューマンの生涯を解説!当初はピアニストを目指していた?

    ・生い立ちとピアノとの出会い

    1810年6月8日、ロベルト・アレクサンダー・シューマンは、5人兄弟の末っ子としてドイツに誕生します。出版業を営む父アウグストと、音楽好きの母ヨハンナに育てられました。家庭は裕福で、シューマンには住み込みの家庭教師がつき、6歳から私立小学校に通っていました。

    1819年、作曲家でピアニストであったイグナーツ・モシェレスのピアノ演奏を聴き感動した9歳のシューマンは、ピアニストを目指すことになります。

    • 裕福な家庭で育ったシューマン、9歳からピアニストを目指します

    10歳でギムナジウムと呼ばれる学校へ入学すると、ピアノの勉強に打ち込む日々を送りました。父親はシューマンの才能に期待し、高価なピアノを買い与えています。しかしシューマンが16歳の頃、父親が亡くなります。母親がシューマンに堅実な職業に就いてほしいと願ったことから、シューマンは法律家への道を目指すことになりました。

    • 16歳の頃に父親が亡くなり、母親の願いから法律家への道を目指すことに

    ・大学時代

    1828年にギムナジウムを優秀な成績で卒業すると、ライプツィヒ大学の法科に入学して法律の勉強を始めます。しかし、あまり熱心に法律の勉強をすることはありませんでした。ピアノの練習を続け、ピアノ教師であるフリードリヒ・ヴィークのレッスンを受けるようになります。また、ヴィークの娘であるクララとも親しい仲になります。

    ハイデルベルク大学に転校しますが、やはり法律よりもピアノや作曲の勉強に時間を費やすようになります。とうとう母親もシューマンを法律家にさせることを諦め、音楽の道へ進むことを許します。

    • 法律の勉強に身が入らなかったシューマン、ピアノと作曲にベクトルを向け始めます。

    1830年、20歳でライプツィヒに戻ると、ヴィークの家に住みながらレッスンを受けることになりました。熱心にピアノの練習をしていたシューマンですが、1831年、指を鍛えるために自作した装置が原因となり、右手の指を故障してしまいます。当時はリストによる超絶技巧の演奏が流行していたこともあり、ピアニストの夢を諦め、作曲家を目指すことに決めます。

    1834年には、音楽雑誌である「新音楽時報」を創刊しています。また、ヴィークの弟子であったエルネスティーネ・フォン・クラッケンと婚約しますが、わずか数週間後には婚約解消してしまいます。

    • 指を鍛えるための自作装置により右手を故障してしまうシューマン
    • 24歳の時には婚約をしますが、数週間後には解消してしまいました。

    ・クララとの結婚

    1835年からはヴィークの娘であるクララと交際が始まりますが、父親のヴィークに猛反対されます。

    会うことも許されない状態になった2人は、文通で愛を深めることになりました。また、シューマンは優れたピアノ曲を次々と作曲し、優秀なピアニストであったクララはシューマンの作品をコンサートで演奏したのです。

    1839年、シューマンはクララと結婚するため、訴訟を起こす準備を始めます。訴訟を知ったヴィークは激怒し、クララを自宅から追い出します。1840年、ついに2人の結婚を認める判決が下され、結婚式が行われました。

    • 音楽家としても共同活動を始めるシューマンとクララは無事に結ばれることになります。

    ・歌曲から交響曲、そして室内楽曲へ

    それまではピアノ曲ばかり作曲していたシューマンですが、30歳で結婚するころから、熱心に歌曲を創作するようになりました。1840年は「歌曲の年」と呼ばれています。

    1841年は初めて交響曲を作曲するなど、オーケストラ作品に取り組んだことから「交響曲の年」と呼ばれます。また、1842年は「室内楽曲の年」と呼ばれ、リストの勧めによって室内楽曲に意欲的に取り組むようになりました。

    • シューマンの1840年は「歌曲の年」1841年は「交響曲の年」1842年は「交響曲の年」と呼ばれている。

    しかし、この頃のシューマンは精神的な疲労感を抱えていました。シューマン夫妻には8人の子どもが生まれたので、経済的負担が大きく、収入が思うように増えないことなどに悩んでいたのです。

    ・病を抱えながら円熟期を迎える

    1843年には、メンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院教授として、ピアノと作曲を教えるようになります。しかし翌1844年、演奏旅行の疲れもあり、シューマンは体調を崩しがちになります。作曲活動も滞り、音楽院での仕事も出来なくなってしまいます。

    幻聴、震えなどの症状を抱え、環境を変えるため、一家はライプツィヒからドレスデンへ移住することを決めました。

    • ライプツィヒ音楽院でピアノと作曲を教え始める
    • しかし、演奏旅行の疲れから体調を崩しがちになってしまうシューマン

    新しい土地に移った1845年には創作意欲を取り戻し、ピアノ協奏曲などを作曲しています。

    1847年には、長男エミールがわずか1歳で亡くなるという悲劇も起きます。また、合唱団の指揮者に就任したことをきっかけに、合唱曲を多く手掛けることとなります。このころのシューマンは、作曲家としての円熟期を迎えていました。

    • 1847年頃、作曲家として円熟期を迎え始めるシューマン

    ・デュッセルドルフ時代

    1850年、一家はデュッセルドルフへ引っ越し、シューマンは管弦楽団や合唱団で指揮を行いました。協奏曲や交響曲などを意欲的に作曲していますが、オーケストラとのトラブルが起きるなど、しばしば問題もありました。熱心に創作活動を続けますが、耳鳴りが激しくなるなど、精神障害は悪化し、シューマンを苦しめます。

    • 精神状態が悪化していき、シューマンの作曲活動を苦しめる結果に

    1854年、衝動的に家を飛び出したシューマンは、ライン川の橋から飛び込み、自殺を図ります。幸いなことに通り掛かりの船に助けられ、命は無事でした。シューマン自身の希望により、家族と離れ、精神病院に入院することになりました。

    1856年7月29日、シューマンは息を引き取ります。46年の生涯でした。現在はボンの墓地に眠っています。

    • シューマンは自殺未遂を起こし、その後46年の生涯で息を引き取りました

    シューマンの生涯:まとめ

    シューマンの生涯についてご紹介しました。

    ピアニストの道を断念したシューマンは、病気に悩みながらも、美しい名曲の数々を創作し続けました。

    また、父親の反対を押し切ってクララと結婚したり、晩年には自殺未遂を起こしたりするなど、衝撃的なエピソードも知ってもらえたと思います。

    波乱万丈な生涯を送ったシューマンのことを思いながら、シューマンの作品を聴いてもらえるとうれしいです。

    • シューマンの応援されない結婚、晩年の精神障害は彼自身を苦しめるものでした。
    • 逆境に立たされながらも数々の美しい名曲を作り上げた作曲家です。

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